第33番札所 報恩寺観音山(ほうおんじかんのんやま)

●入り口

稗古場天満宮横の町道を登り、屈曲点から参道石段にはいります。


●札所


標高差30mの流紋岩山頂に、高さ5mの観音塔が建っています。

●安置仏


本尊(観音塔)観世音菩薩34尊

脇尊(背後石塔)不動明王

●歴史

報恩寺21世:松藤萬乗が、1925年に建立

建立以前は、この岩山は「火箱山」と呼ばれていました。

建立以降、この岩山は「観音山」と呼ばれています。

●漢字


この漢字を、ガイド本巻末の チェックシート「33番」の所に、順礼の証しとして、書き写していきます。


●近くの見どころ


1.祭礼廟

場所

札所の北側20mの山頂部

由緒

朝鮮陶工の2家(金ヶ江家と深海家)が、先祖を祀るために建立。その時期は江戸中期か。

金ヶ江家は初代李参平の一族、

深海家は「百婆仙」と呼ばれた深海宗伝一族

この2家は、中秋の名月の夜にこの地で「望郷之宴」を拓き、故国に遺して来た家族を偲んだ

中秋の名月の頃は、朝鮮ではお盆にあたる


2.稗古場窯跡

場所

札所の東側50m

札所へ向かい、登って来た町道沿い

由緒

創業は1620年頃

深海家の祖:深海宗伝の死後、その妻:百婆仙が一族を率いて武雄領内田から移住して来てこの窯で磁器づくりを始めた、と伝わる

深海家は1650年代に泉山登に移り、その後はこの地区の窯焼の共同窯となり、明治期末まで続く

現存する窯場は、日展作家:2代目松本偑山の仕事場だった


3.有田小学校

場所

札所の北方300m

由緒

太政官布告学制の前年、1871年に有田皿山の4私塾が合同し、白川小学校を開校した

校舎は廃藩置県で空き家となった皿山代官所が使用された

1913年に木造平屋建の校舎へ移転改築された

1941年に国民学校と改称され、1945年に有田小学校と再改称された

1961年に鉄筋コンクリート3階建校舎が現地改築された

2017年に、全校生徒数96人ながらも、現在の校舎が移転改築されている 


4.皿山代官所跡(広場)

場所

札所から北へ400mの町道(2車線)沿い

歴史

有田皿山を統治する佐賀藩は、1647年から廃藩まで41人の皿山代官を任命した

当初、皿山代官は大木邑の有田代官所に配置したが、有田焼の輸出貿易が始まる1650年代には、この地に代官所を設置した

廃藩置県の1872年には、代官所施設に白川小学校が開校する 


5.天狗谷窯跡

場所

札所から北へ500m

由緒

初代李参平公が1616年に陶石鉱を発見し、2年後に本格的な磁器生産を始めた窯跡

日本人陶工の追放事件の1637年には、その被害を受けて廃窯となる


6.復元唐臼

場所

札所から東へ100m、天狗谷窯跡への路地の反対側

機能

磁器は陶器と違い、原料の陶石を砕いて細かくし、更に水簸してハタリ粉を作り、水を混ぜて陶土を作る

その砕石は川の水を利用する「唐臼(からうす)」を使用した。

歴史

江戸期には、有田皿山(外山を含む)に240基の唐臼があったと記録が残る

朝鮮半島にこの文化は無く、有田焼創始期に中国景徳鎮からもたらされた文化らしい


●第34番札所への道案内 


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黒髪へんろ道 kurokamihenro-michi

黒髪へんろ道の魅力はまず、あの有田焼や伊万里焼の産地です。 さらに。松浦党や武雄後藤家そして南北朝の戦乱の歴史をもった土地柄です。 西九州の田舎ですが、そんじょそこらの田舎とは違う、魅力あふれる田舎なのです。 遍路歩きに来てみませんか。