●入り口
秘色湖(有田ダム)へ向かう町道(1車線)の、白川共同墓地の一隅にあり。
●札所堂宇
●安置仏
本尊(中央2尊)
左/阿弥陀如来
右/観世音菩薩
脇尊
左端/観世音菩薩
右端/弘法大師
堂宇外
弘法大師と地蔵菩薩ほか7尊
●歴史
1941年の町道拡幅工事で、白川稲荷入口からこの地に遷宮移転した。
移転の時、薬師如来は白川稲荷社下の旧白川公園に残った可能性あり。
●漢字
この漢字を、ガイド本巻末の チェックシート「34番」の所に、順礼の証しとして、書き写していきます。
●近くの見どころ・施設
1.白川共同墓地
場所
札所の東側一帯
主な埋葬者
初代李参平公:朝鮮陶工で1655年没。1916年に有田焼陶祖とされる
江越禮太:小城藩士で1872年に白川学校(現有田小学校)の初代校長
深川六助:有田陶器市の考案者
井手金作:明治大正期のろくろ名工/その他、ここには有田焼史を彩った名工が多く眠る
2.身代わり地蔵尊
場所
札所より西へ100m
歴史
1967年7月の集中豪雨で土石流が起こり、この地域の住民6人が被災した
その時に圧死していた母親の懐から、1人の女児が、奇跡的に救出された
この地区では、その災害の奇跡を後世に伝えるために、地蔵堂を建立し「身代わり地蔵尊」と呼んだ
3.秘色の湖(有田ダム)
場所
札所から南へ300m
由緒
佐賀県が1957~61年に建設下多目的ダム
日本人陶工の追放事件の1637年には、その被害を受けて廃窯となる
有田町は1961年から、ここを水源にして上水道事業を開始した
有田町は透明度に優れた湖水を活用して森林浴公園化を実施
優れた透明度は、地質の流紋岩陶石の持つ明礬成分の作用
4.大蛇退治伝説の舞台
場所
黒髪へんろ道ルートの沿線に散在する
歴史
1710年頃に宮野杉森家に逗留した近松門左衛門が書き残した大蛇退治話の縁の地が残る
内容
評定場/大蛇を誘き出す方法を議論した台地が、秘色湖の湖底に眠る
今池/評定場で決議した池の畔に高台を組み、そこに生贄の娘を高台に載せて大蛇を待った池
大樽・中樽・小樽/大蛇を誘き出す策として、酒樽を用意した所が今の街名となった
5.マイセンの森
場所
札所から南へ100mの入口一帯
由緒
有田町とDDRマイセン市は、1979年に姉妹都市提携を結んだ
佐賀県は1984~86年に、有田ダム湖畔周辺の生活環境保全林事業を実施
有田町は1986年に、姉妹都市交流記念公園として、マイセンの森を整備した
以降、記念碑を建立し、交流事業の際に記念植樹を行ってきた
●第35番札所への道案内
黒髪へんろ道 kurokamihenro-michi
黒髪へんろ道の魅力はまず、あの有田焼や伊万里焼の産地です。 さらに。松浦党や武雄後藤家そして南北朝の戦乱の歴史をもった土地柄です。 西九州の田舎ですが、そんじょそこらの田舎とは違う、魅力あふれる田舎なのです。 遍路歩きに来てみませんか。
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