第50番札所 金輪権現(かなわごんげん)

●入り口(1)

広瀬山集落の四差路へ戻り、右手の観音立像の先から右手の集落道へ入ります。

●入り口(2)

集落道を100m進むと、3基と鳥居が立つ石段があり、ここを登って行きます。


●札所周辺


金輪神社の拝殿の左脇に、札所安置仏はあります。

●安置仏

本尊(左側)阿弥陀如来

脇尊1.(右側)弘法大師

脇信2.(社殿の左脇)勢至菩薩

●歴史

当初は当山派実相院の末坊で、山伏十輪院が、広瀬山の里山伏として居住していました。

江戸期に、佐賀藩有田皿山の外山広瀬山の窯場や、佐賀藩広瀬御牧の山ノ神や馬頭観音を抱え宮としていたようです。

社殿は、有田皿山大火で皿山の陶工が流入した1830年代に再建され、明治期の神仏分離令以降は、「金輪神社」と改称されたようです。

1876年の皿山陶業盟約には、窯焼8氏の名が残り、境内には火の神「多々良神」を見ることが出来ます。

今日でも、背後の谷筋は「権現谷」の名が残り、古老たちはこの社に親しみを込めて「権現さん」と呼んでいます。

●漢字

この漢字を、ガイド本巻末の チェックシート「50番」の所に、順礼の証しとして、書き写していきます。


●近くの見どころ・施設


1.金輪神社

場所

札所のある場所

由緒

江戸期の有田外山「広瀬山」の頃から「金輪権現」と呼ばれてきた

明治初期の神仏分離令で「金輪神社」となるが、住民は「権現さん」と呼ぶ

社殿の奥に金毘羅石祠、聖徳太子石祠と並び薬師如来が祀られ、

社殿の脇に勢至菩薩と日峰社の板碑、大乗妙典塔が立ち、当山派山伏:十輪院の権現在番を忍ばせる 



2.広瀬山観音堂

場所

札所から南方150m、市街地の中

由緒

建立時期は不明だが、龍門33観音巡りの創設期か。

有田光明新四国巡り(1900年完成)の第84番・85番札所とされている


3.広瀬山天満宮

場所

札所から南方250m

由緒

江戸期は、この地に佐賀藩広瀬山口屋番所が置かれていた

番所では、有田外山「広瀬山」の陶工や旅人の出入り、陶石や製品の搬出入の監視をした

北側の牧山山麓には佐賀藩広瀬御牧があり、牧場の管理も行っていたと思われる

明治期には、番所跡に広瀬山小学校が開校した


●第51番札所への道案内


●歴史

広瀬山は、古くから陶器を焼く窯場でした。

1650年に佐賀藩の陶業地再編で、有田皿山の外山に指定され、磁器の産地となりました。

その頃に、当山派山伏の十輪院がこの地に住み着き、窯場や藩牧場の神祠を抱え宮としたようです。

以来、この地は「権現さん」と呼ばれ、背後の谷は「権現谷」と呼ばれています。

1876年の陶業盟約には、9名の窯焼が名を連ねています。

地区内には、窯場の火の神「多々羅神」が祀られています。

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黒髪へんろ道 kurokamihenro-michi

黒髪へんろ道の魅力はまず、あの有田焼や伊万里焼の産地です。 さらに。松浦党や武雄後藤家そして南北朝の戦乱の歴史をもった土地柄です。 西九州の田舎ですが、そんじょそこらの田舎とは違う、魅力あふれる田舎なのです。 遍路歩きに来てみませんか。