●入り口
大樹神社前から東へ100m下ると左手に龍泉寺南門があり、そこから入ります。
順礼址に55番札所へ向かう近道は、正面の松浦鉄道跨線橋を潜り、大木宿の集落へ向かいます。
●札所堂宇
龍泉寺南門のすぐ右手に、札所:十六善神堂はあります。
●安置仏
本尊 (正面)毘沙門天
脇尊 (掛け図)十六善神=四天王+十二神将
四天王
持国天・増長天・広目天・多聞天
十二神将
釈迦如来・大日如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩・勢至菩薩・観音菩薩・虚空蔵菩薩・地蔵菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・如意輪観音・大威徳明王
●歴史
龍泉寺は真言宗大覚寺派の寺院で、1532年に唐船城南麓に開山しました。
1540年から始まった雨乞い浮立は、有田郷の農業を護ってきた、と伝わります。
火災などで、1674年に現在地に移転しました。
境内に建つ十六善神堂は、江戸末期の疫病を鎮めた記念堂として、大木地区が建立しました。
この時の医師:水町昌庵は、伊藤玄朴らと鍋島宗家の種痘治療に貢献し、その後、龍泉寺門前に居住しています。
その疫病難を語り継ぐ浮立が、毎年9月23日に、大木宿区民の総出で演じられています。
●漢字
この漢字を、ガイド本巻末の チェックシート「54番」の所に、順礼の証しとして、書き写していきます。
●近くの見どころ・施設
1.平瀬山龍泉寺
場所
札所の前
本尊
聖観世音菩薩
由緒
龍泉寺は真言宗大覚寺派の寺院で、1532年に唐船城南麓:平瀬で「普門院」として開山
1540年から始まった雨乞い浮立は、その後の旱魃時に有田郷の農業を護ってきた、と伝わる
以来、雨乞い神:龍神を祀る
火災などで、1674年に現在地に移転し、龍神も南門脇の池の中島に祀る
有田焼陶祖:初代李参平の過去帳などが伝わる
2.龍泉寺十八夜
場所
札所の前
例祭日
毎年8月18日の午後6時頃から
由緒
例祭の起因時期は不明
大木宿の青年組が代々、準備と運営を取り仕切るのが伝承
喧嘩浮立「どてまかしょ」と、仕掛け花火「じゃぁもん」がメイン行事
3.有田代官所跡
場所
札所の東方100m
由緒
江戸期の有田郷の政治を司る佐賀藩役所で、1615年に創設される
有田皿山代官所が1646年に併設されるも、10年後は皿山に移る
佐賀藩営牧場(葉司川内・牧・広瀬山、牧島)の管理役も置く
4.松尾家
場所
札所の東方100m、代官所の南側一帯
由緒
初代長左衛門は武雄領から移り住み、1695年に逝去
その後は有田郷大木村の大庄屋を務めた一族
8代傳次郎の弟:長助の子:又蔵は、1919年に「宮の松」酒造を創始
9代:藤九郎の子:寛三は、有田郷最初の衆議院議員となり、後に日銀副総裁を務める
松尾寛三の子:寛至は、1910年の湘南沖のボート転覆事故犠牲者で、小説「真白き富士の根」の1人
5,大木宿阿弥陀堂
場所
札所の南方400m、国道202号から鉄道側へ下る
由緒
中世唐船城末期の五郎屋敷の一隅と思われる
周囲に五輪塔が並ぶが、その由緒は不明
稲荷社の脇に立ち、2023年に阿弥陀如来像が寄進された
五郎屋敷跡は1897年の伊万里鉄道(現松浦鉄道)で分断され、55番札所へ行くことは不可
●第55番札所への道案内
黒髪へんろ道 kurokamihenro-michi
黒髪へんろ道の魅力はまず、あの有田焼や伊万里焼の産地です。 さらに。松浦党や武雄後藤家そして南北朝の戦乱の歴史をもった土地柄です。 西九州の田舎ですが、そんじょそこらの田舎とは違う、魅力あふれる田舎なのです。 遍路歩きに来てみませんか。
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