第57番札所 円満寺跡(えんまんじあと)

●入り口(1)

普門院跡の石仏・石碑が並ぶ森の中に、城山散策道の登り口石段があります。

●入り口(2)


城山観音道と城山山頂で展望を楽しんだ後、城山北側の本丸へ下りてきます。

本丸から急な石段(手摺あり)を下り、最初の中段から曲輪道を東側へ入ります。


●札所堂宇

円満寺跡広場は26尊の石仏が祀られ、その奥に小さな堂宇が祀られています。

●安置仏


本尊(中央左側)千手観世音菩薩

脇尊1.(中央右側)観世音菩薩:木像

脇尊2.(左端)不動明王

脇尊3.(右端)弘法大師

●歴史

円満寺は始め、唐船城の武器庫があった所で、1561年に本丸の鬼門として開山しました。

1590年の山城禁止令で廃城となり、円満寺跡には当山派山伏:龍蔵院が住み着いて拠点とします。

龍造院は江戸期に、有田郷でも最大権力を持ち、佐賀藩湯田原牧場から古木場金山まで17カ所の抱え宮を持ちます。

●漢字


この漢字を、ガイド本巻末の チェックシート「57番」の所に、順礼の証しとして、書き写していきます。


●近くの見どころ・施設


1.唐船城址

場所

札所の南側にある城山

由緒

松浦党の支城で1218年に築城し、松浦党一族の有田郷支配の拠点となる

中世の戦乱期に勢力を広げた龍造寺一族に、1577年に包囲されて明け渡す

龍造寺一族の支配も、豊臣秀吉の山城禁止令で1590年に廃城となり、江戸期の佐賀藩支配へと移りゆく


2.山田神社

場所

札所の西側100m

由緒

唐船城期の1562年に、円満寺住職:阿泉を大導師として熊野本山から分霊を迎える

廃城址に、円満寺跡を拠点とした山伏:龍蔵院が、山田野村の里山伏として勢力を拡大していく

龍蔵院は城山を「山田野権現」と呼び、後に、八坂神社と白山神社を建立し「山田野三所権現」を創建させた

1805年に本殿を再建し、明治期に「山田神社」と改称

1919年に山谷村村社に格付けされる 


3.湯田原御牧

場所

札所から東へ500m、牧山の西側山麓

由緒

江戸初期に、佐賀藩は伊万里湾の牧島を藩馬養成の放牧地とした

次いで、腰岳と牧山間の山林を3分割し、葉司川内・湯田原・広瀬山の藩牧場を創設した

藩牧場には馬番役人を置いて管理した

その馬番小屋は、写真右手の山裾に今も残る

各牧場に馬頭観音や水神を祭り、唐船城址の山伏:龍蔵院が毎年、祈祷に廻った

この藩牧場の境に石塁を積み、その残累が今も残っている


4.MRやまだに駅

場所

札所から西へ500m、国道202号沿い

行き先

上り線/ありた駅方面

下り線/いまり、ひらどぐち、させぼ駅方面

管理者

松浦鉄道株式会社

路線バス

駅前に佐世保方面・伊万里方面への路線バス停あり

管理者

西肥バス株式会社


●第58番札所への道案内

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黒髪へんろ道 kurokamihenro-michi

黒髪へんろ道の魅力はまず、あの有田焼や伊万里焼の産地です。 さらに。松浦党や武雄後藤家そして南北朝の戦乱の歴史をもった土地柄です。 西九州の田舎ですが、そんじょそこらの田舎とは違う、魅力あふれる田舎なのです。 遍路歩きに来てみませんか。