●入り口(A)
古子集落へ入り、最初の「滝藤」サインに従わず、上部農道へ上がり、50m地点の右手に伸びる細道へ入り、南へ進みます。
●入り口(B)
古子集落へ入り、最初の「滝藤」サインに従い農道を下り、農道の分岐交差点をサインに「従い左手に向かいます。
やがて傾斜を増し、左手に公民館を見て進み、3番目のサインに従い細道を進みます。
●札所堂宇
●安置仏
本尊 地蔵菩薩(座像)
●歴史
古子地区は腰岳西斜面の中腹で、唐船城期に重臣の松河氏の采地でした。
唐船城はその廃城期の1590年頃に、松浦党宗家の総持寺が焼討ちされ、その再興に尽力します。
その原動力は、唐船城々代:池田武蔵守で、その子:池田忠兵衛でした。
江戸期の古子住民はその池田家と、伊万里城家臣の峯家の家臣が土着し、棚田を築いていきました。
古子地区は腰岳の中腹にあり、住民が農地造成する時、腰岳黒曜石に苦労させられた、と伝わります。
札所の場所は法寿庵があった所で、1571年に西本願寺が下賜された、と伝わります。
●漢字
この漢字を、ガイド本巻末の チェックシート「68番」の所に、順礼の証しとして、書き写していきます。
●近くの見どころ・施設
1.古子の滝藤
場所
札所の南側20m
樹齢
300年とも
由緒
300年前の古子邑庄屋が京都から持ち帰り、植樹したと伝わる
この場所は法寿庵跡地
京都西本願寺から下賜されてた阿弥陀如来仏は法寿庵に安置されていた
2.古子地区公民館
場所
札所の西側50m下、現公民館内
由緒
公民館の建つ場所は、江戸期の庄屋:池田氏の屋敷跡
公民館には1571年に下賜されたという阿弥陀如来像が安置されている
公民館建設前は、この阿弥陀如来像を、全古子住民宅で年廻しで保管してきた
3.総持寺跡(廣厳寺の前身)
場所
札所の東上500mの道副溜池の南側植林地
由緒
松浦党宗家の菩提寺:総持寺が1591年に、名護屋城駐留に豊臣秀吉の命で焼討ちされた
総持寺の不鉄和尚ら僧侶は、唐船城に匿われた
唐船城々代:池田武蔵守は1502年、総持寺を腰岳中腹に復興させた
不鉄桂文和尚は1598に年、鍋島直茂に誘われ、佐賀城下の高伝寺へ移る
その継承僧:太田守軽和尚は広厳寺と改称し、1640年頃に大里邑丹華へ移転
廣厳禅寺は開山期の48年間、この地にあり
●第69番札所への道案内
黒髪へんろ道 kurokamihenro-michi
黒髪へんろ道の魅力はまず、あの有田焼や伊万里焼の産地です。 さらに。松浦党や武雄後藤家そして南北朝の戦乱の歴史をもった土地柄です。 西九州の田舎ですが、そんじょそこらの田舎とは違う、魅力あふれる田舎なのです。 遍路歩きに来てみませんか。
0コメント