●入り口
嶽神社入り口の林道を西へ5mにある橋の袂から右手参道へ下ります。
嶽神社二の鳥居を潜ります。
●札所周辺
●安置仏
本尊(左端)副島勇七供養塔
脇尊6尊(本尊脇左から)
地蔵菩薩:立像
薬師如来:立像
八幡天菩薩:坐像
不動明王:坐像
文殊菩薩:坐像
十一面観世音菩薩:坐像
脇尊2(本尊背後の岩塊上)
日切地蔵菩薩
●歴史
この地は本来、日切地蔵菩薩を本尊とする参拝堂でした。
背後の岩塊の上には日切地蔵尊のほか9尊が祀られ、順礼者が堂宇から参拝されていました。
副島勇七は佐賀藩窯伝説の名工でしたが、藩窯システムから脱走し1800年に追跡した佐賀藩士に捕縛され、晒し首となります。
供養塔は1970年に大川内山窯焼:金武氏が建立されたものです。
佐賀藩の負の遺産であることから、勇七の供養塔は他に在りません。
●漢字
この漢字を、ガイド本巻末の チェックシート「72番」の所に、順礼の証しとして、書き写していきます。
●近くの見どころ・施設
1.佐賀藩(鍋島藩)窯跡
場所
札所の西方100m
嶽神社参道口の鳥居奥(写真正面の森)に眠る
由緒
佐賀藩の御道具山は、1675年に有田から大河内山へ移転した
当初はトンゴ岩下に、窯室数15室、全長52mの窯が稼働していた
程なくして現在地に、窯室数30室、全長140mの巨大な窯が築かれて移転した
この巨大な窯のうち、藩窯として稼動したのは中央部の5室で、その前後は大川内山住民窯焼の「お手伝い窯」とされていた
藩窯で焼成された製品は、将軍家や公家への献上品・贈答品で、一般市場へ出回ることは厳禁とされた
佐賀藩窯は、廃藩置県の1871年まで稼働していた
2.高麗陶工の墓地
場所
札所から北へ150m
設備
民家の外れに梅林があり、石碑が2基建っている
由緒
佐賀藩窯が有田から移される前の1610年頃の朝鮮陶工夫妻の墓地と思われる
墓石には「1660年」「1669年」の刻字が残る
その頃、大河内山には陶器を焼いていた朝鮮陶工の窯が5基ほど確認されている
●第73番札所への道案内
黒髪へんろ道 kurokamihenro-michi
黒髪へんろ道の魅力はまず、あの有田焼や伊万里焼の産地です。 さらに。松浦党や武雄後藤家そして南北朝の戦乱の歴史をもった土地柄です。 西九州の田舎ですが、そんじょそこらの田舎とは違う、魅力あふれる田舎なのです。 遍路歩きに来てみませんか。
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